高麗人参の土づくりは、進歩し続けている?
とは言えないような気がします。
江戸時代に徳川吉宗公の命を受けた田村藍水が、日光の地で確立した高麗人参栽培法。徳川幕府の財政再建策として、各地の大名に高麗人参の「御種」が配られ、オタネニンジンの栽培が奨励されます。
日光における高麗人参の栽培技術開発の裏には、福島会津地方に伝わる焼畑農法が貢献しました。山林畑を焼いた後にエゴマを栽培し、それを土に鋤き込みます。それによって、土壌中に高麗人参の共生菌根菌であるグロマス属を増殖させる方法です。
最新の植物学でも裏付けされた素晴らしい土づくりです。その土づくり法は、その後さらに進歩したのでしょうか?
日光で確立された高麗人参の土づくりのその後を福島会津で追いました
開発拠点の日光(栃木野洲)は、残念ながら高麗人参の栽培を止めてしまいましたが、熱心に取り組み続けた福島会津、長野佐久、島根大根島は、現在も栽培が行われていて、日本の高麗人参三大産地となっています。
日光に近く高麗人参の土づくりの開発に貢献した福島会津。その後の土づくりの歴史をたどってみましょう。
明治時代の高麗人参の土づくりはエゴマパワーが風前の灯
会津で高麗人参の栽培が始まってからおおよそ一世紀半後の1899年(明治32年)会津の初瀬川健増(1851-1924)によって「人参栽培製薬法」が出版されました。
初瀬川健増は漆の栽培普及に努め、その活動は国外にも及ぶほど優れたものでした。明治維新後は、村長・郡会議員などを歴任し地域の発展に貢献します。
研究心旺盛な健増は漢書や農業書などの収集に励み3万冊に及ぶ「初瀬川文庫」を設けました。
漆の栽培については自身の経験を書き記したものですが、高麗人参については農夫、職人、商人など各方面から情報を収集したものです。内容は、栽培から加工・販売に至るまで総合的にまとめ上げられています。当時の状況を事実に即し客観的に記した精度の高いものと考えられます。
その「人参栽培製薬法」には、土づくりについて次のように記されています。
春3月に1反あたり約6.8トンの馬糞を施して耕す。
7月に入ったら、生草あるいは柔らかい木の葉を2.7トン土壌に鋤き込む。(春にエゴマの種を畑一面に播いて、90cmほどに育ったら畑に鋤き込んでいれば、生草の鋤き込みは不要)
8月には油粕と人糞を混ぜ完熟させた肥糞2.9Kリットルを畑一面に散布し、さらに馬糞で一面を覆い、50日後に耕す。
11月に畝づくりをして播種する。
田んぼから高麗人参を作付する畑に転作する場合には、タバコを栽培し、螻蛄(おけら)や害虫の駆除を行うこと。
この書物によれば、生草や木の葉の鋤き込みが記されていますが、田村藍水がキーポイントとしているエゴマの作付と鋤き込みは、カッコ書きになっています。必須作業ではなくなっています。江戸時代の先人の知恵が過小に評価されているように思います。
また、生草や木の葉の種類が規定されていないため、エゴマの代替品としての働き、すなわち高麗人参の土づくりのポイントである菌根菌を増殖させる働きをするのかどうか分かりません。
さらに、肥料の使用量が多くなっていることに驚きます。田村藍水は、油粕や干しイワシ・馬ふん、わら灰の類は絶対に入れてはいけない、多肥は病害虫病の原因になると述べていました。しかし、その教えはどこへやら。多肥は菌根菌にとって棲みにくい土壌環境です。
大正時代の高麗人参の土づくりは肥料がさらにたっぷり
時代は大正へ。1914年(大正3年)に福島県南会津郡役所から発行された「南会津郡誌」に、高麗人参の栽培についての記述があります。
土づくり1年目10~11月に畑を深く耕し、年明け2年目4~5月に雪融け次第再び耕し、整地する。(原野を開墾する場合は、厩肥を多量に施して1年間土を休めておくこと。)
整地後、ムギ(資料中の「麥」は麦のこと)を作付し、収穫後耕耘して休めておくか、青物野菜を栽培し冬に収穫し、その後耕耘して土休めでもよい。
土づくり3年目の4月に、整地し地割をし、畝の部分を深く掘り下げ、厩肥を1反当たり約23トン入れて、畝立てを行う。厩肥以外の肥料は使用してはいけない。
この土づくりには、エゴマに替わってムギの作付が推奨されています。ムギもアーバスキュラー菌根菌を増殖させる働きがありますので、田村藍水も許すでしょう。
しかし、「厩肥を1反当たり約23トン」には驚きです。厩肥(うまやごやし・きゅうひ)とは、家畜の糞尿と敷きわらなどを腐熟させた有機質肥料です。絶対に入れてはいけないと言っているものが23トンも、田村藍水が聞けばびっくりポンです。
瀬川健増が「人参栽培製薬法」を発行してからわずか15年で、多肥化が加速しています。これだけ肥料分が多いと、菌根菌は棲めないでしょう。
なぜ高麗人参栽培の標準作業書「朝鮮人参耕作記」を順守できなかったのか
江戸時代、全国の各大名は徳川幕府より奨励された高麗人参の栽培を始めます。高麗人参の栽培が難しいことは周知のことであり、田村藍水の記した栽培手引書「朝鮮人参耕作記」を忠実に守って栽培されました。
高麗人参の輸出に向けさらに品質管理を徹底した江戸末期
そして、約1世紀後の1830年(天保元年)には、幕府は国外への輸出を許可します。各大名は中国や韓国産に負けない高い品質を確保するために、標準作業書である「朝鮮人参耕作記」の徹底的な順守に努めました。
高麗人参の輸出によって会津藩は財政難を脱します。高麗人参によって増え続ける財力は、会津藩主松平容保に京都守護職の地位を与え、新撰組の活動や戊辰戦争で使われたゲーベル銃やシュナイドル銃などの資金源となります。しかし、戊辰戦争に敗れ会津鶴ヶ城開城となり江戸時代の終焉を迎えます。
高麗人参栽培が民営化された明治維新
明治時代(1868年~)に入った翌年明治2年、高麗人参の栽培が民間に開放されます。大名によって標準作業書を順守してきたものが、各農家の自由な栽培に任されることになります。より多くの収入を得るために、連作障害や病害虫のことも考えず多量の窒素肥料が投入されます。
田村藍水の教えからどんどん遠のいていきます。
明治維新後の食糧需要に応える農業に求められたことは
明治維新以降、人口は増え続け生活が向上していくに従って、食糧需要が増加していきます。これを賄うため、農業には大量の肥料を投入し、より多くの収穫を上げることが求められます。大量の肥料が投入された畑は、雑草や害虫が増え病気も流行りやすくなりました。
大正時代に入っても、肥料を減らすのではなく、除草剤や農薬が開発され、さらに化学肥料を投入し生産性の向上が図られていきます。
高麗人参も例外ではありません。上述の「人参栽培製薬法」や「南会津郡誌」に見られるように、どんどん多肥化が進みます。その結果連作障害がひどくなり、高麗人参を作付すると、その土地の地力は奪われ、数十年間は二度と高麗人参を作付できなくなりました。
新たな土地を求めてジプシーのように移動していきます。会津盆地には高麗人参を作付したことのない土地はないと言われるほどになります。そして、中通りの二本松市や福島市などの県北地域でも栽培が始まります。
今回の記事では、書物として記録が残っていて栽培技術で先端を走る福島会津を追っかけましたが、島根の大根島や長野の投信地方などの他の産地でも、福島会津と同様のことが起こっていたものと推測されます。
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単位:1駄=135kg、1段歩=1反、1荷=72リットル、1貫=3.75Kg