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日本の高麗人参の栽培技術は、本家韓国より進んでいる

高麗人参

野生の高麗人参があるが故に、栽培技術が進化しなかった本家韓国

高麗人参は栽培できるのですか?

はい、現在販売されている高麗人参のほとんどは、栽培されたものです。高麗人参の販売各社の広告には、高麗人参の栽培がいかに難しいものかが語られています。そのことが高麗人参の価格を安くできない理由のようです。

どういった点が、高麗人参の栽培を困難にしているか知りたいところです。その前に、今回は高麗人参の栽培がいつから始まったのか、歴史をさかのぼってみましょう。

乱獲で無くなっていく野生の高麗人参(山参:サンサム)

高麗人参は、朝鮮半島から北東の中国、ロシアの沿海州にわたる北緯39度から47度の冷涼な地帯に自生しています。有史以前からこの一帯を支配していたのは朝鮮民族で、自分たちの民間治療薬として使用する程度でした。

紀元前1世紀の高句麗から、百済、新羅、渤海、高麗をへて19世紀の李朝に至る各王朝は高麗人参を独占し、中国・日本はじめ東アジアとの貿易や外交貢物として重用し、国や王室の財源にしました。その需要に応えるために、高麗人参は乱獲され続け、山に自生している山参は消えていきました。

朝鮮王朝の厳しい統制が、高麗人参の栽培技術の芽を摘んだ

野生の高麗人参が少なくなって困ったのは、人参堀り職人のシンマニたちです。彼らは、野生の高麗人参から種を採取して、高麗人参が好む東向きの斜面に播種し、栽培を始めました。これを山養参といいます。

また、一部の農民は一獲千金を夢見て密かに平地に種を播いて栽培に取り組みました。これを家参といいました。しかし、栽培方法が稚拙で、野生の高麗人参の品質には、程遠く及ばないものでした。

朝鮮王朝では、高麗人参を国家資源として統制していたため、栽培方法の研究や、個人の栽培を厳しく取り締まりました。そのため、栽培の記録が、ほとんど残っていません。韓国での高麗人参の本格的な栽培は、日本統治時代に、日本から栽培技術が導入されるまで待つことになります。

野生の高麗人参がないが故に、栽培技術が進化した日本

高麗人参栽培の最初の研究者は、軍師黒田官兵衛

一方、日本には、高麗人参は自生していないこともあり、日本の高麗人参の栽培への取り組みは本家朝鮮や中国より積極的に行われました。
1592年豊臣秀吉は、高麗人参欲しさに朝鮮出兵を行い、高麗人参の種を持ち帰ります。

秀吉の軍師である黒田官兵衛(如水)は、隠居後、高麗人参の栽培技術の研究に没頭しました。これが日本における最初の高麗人参の栽培研究です。

官兵衛の祖父黒田重隆は、もともとは商人で、薬草から目薬を作り、それを売って財を成して出世した人でした。孫の官兵衛は、幼少の頃、薬草刈りの手伝いをしていたので、高麗人参の栽培に興味を持ったのは当然かもしれません。

そして、少なからず、薬草栽培の知識を持っていたと思われます。しかし、残念ながら、天才の黒田官兵衛を以てしても、高麗人参を栽培することはできませんでした。

また、秀吉の家臣蒲生氏郷も、持ち帰った高麗人参の種子を城下の小山に植え付けました。氏郷は伊勢から陸奥国会津に城主として移ったばかりで、会津の産業発展の一つにしようと思いを込めて、高麗人参の種を播きました。

緯度が朝鮮に近く、冷涼な気候である会津は高麗人参の栽培に適しているのではないかと期待していましたが、栽培することはできませんでした。

しかし、氏郷のこの思いは、後に会津が高麗人参の一大産地となり、会津産高麗人参が会津人参と呼ばれるに至り、成就します。

官兵衛と氏郷の栽培を拒んだのは、高麗人参の発芽の難しさでした。

発芽が難しいなら、まずは苗から育てよう! 徳川家光

徳川幕府三代将軍家光(1604~1651)は、発芽の難しさから苗の入手を試みます。しかし、当時の李王朝は、高麗人参の国外への持ち出しを国禁とし、破ったものは死罪としました。そこは家光、何とか高麗人参の苗を数本手に入れました。残念ながらうまく育てることはできず栽培は失敗します。

家光は、韓国の気候に近い東北の仙台に目をつけます。当時家光の御伽衆となっていた伊達政宗に、高麗人参の栽培をさせましたが、枯らせてしまいました。

高麗人参栽培事業を絶対成功させるぞ! 暴れん坊将軍吉宗

徳川幕府八代将軍吉宗(1684~1751)は、高麗人参の栽培に積極的に取り組みます。1729年に植村左源次、田村元雄(藍水)を幕府技官とし、日光御目代山口新左衛門、吹上奉行西脇重郎左衛門を高麗人参栽培御掛として、日光神領今市宿の篤農家大出伝左衛門に、高麗人参の苗三根が下げわたされて、高麗人参の本格的な栽培が始まりました。

1738年、栽培も可能になり、吉宗は種子と栽培方法を各大名に分け与え、高麗人参の栽培を奨励しました。幕府から下賜された人参という意味で「御種人参」と呼ばれるようになりました。現在の高麗人参の学名である「オタネニンジン」の由来となっています。その後、寛政年間(1789~1801)より、幕府管理下の専売制となり、幕府の御用作として、野洲、信州、雲州、奥州が人参栽培の中心になっていきました。

高麗人参栽培の改善 カイゼン! 平賀源内

高麗人参の栽培技術は進化していきます。平賀源内(1728~1780)が「温知叢書作書部類」の中に高麗人参を栽培法について書いています。若干25歳の時です。この発明により、源内はその後の活動資金を手にします。

いずれにしても、江戸時代中期から後期は、官民挙げて高麗人参の栽培に関心を持った時代です。資源のない国ニッポンのモノづくり力の源流を見るようです。現在も解決されていない問題も多く、農家の方はじめ関係されている方々による改善が継続しています。次回は、具体的な栽培上の問題をあげたいと思います。