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韓国昔話にみる高麗人参「インサム」の名前の由来と幻の栽培方法

高麗人参[崔仁鶴著「韓国昔話集成1」表紙]
人参の名前の由来をご存知でしょうか。

高麗人参は漢方では単に「ニンジン」と呼ばれます。漢字で書けば「人参」です。韓国語では「インサム」と呼びます。名前の由来は、人参の形状が人間の形に似ているからと思っていましたが、韓国では異なるようです。

韓国に次のような昔ばなしがありますのでご紹介します。

    韓国昔話「人参由来記」

    むかし、あるところにひとりの男があった。彼は得体のしれぬ草の根のようなものを、これこそ神秘家伝のホルモン剤でござるとばかりに、むかしも今も変わらぬ不老と強精を渇望している連中に、全鮮(全国)を経巡りまわって売り歩き、秋になれば家を出て、春には帰ってくるという風にして、毎年これをくり返していた。

    ところで、この男の吹聴はまんざら効能書ばかりでないとみえて、これを買って食べた者は無病息災、力はあくまで強く、岩でも差し上げることができるようになり、精力絶倫、本当に寿命も延びるということを誰言うとなく言い伝えて、その噂は町から村へと広がっていった。

    それと共に、元来、素寒貧(すかんぴん)であったこの男はだんだんと金持ちになり、どこそこの何某といわれるほどの長者になった。

    さて、この男の住んでいた村に、あるひとりの詮索好きの若者がいて、「どうもあの男は近来めきめきと財産をこさえたようじゃが、何か秘策があるに違いあるまい」とそれとなく、始終その挙動をうかがっていた。

    ある年の春となったが、例のとおり草の根売りの男は村へ帰ってきた。

    「今度こそ、奴の奥の手を探らなければならぬ」とばかりにねらっていたこの若者は、例の男が大きな箱を入れた風呂敷包みをかついで家に戻ってきたのを確かめて、その夜、夜がふけたのを見すまして、こっそりとその家に忍び込んだ。

    そうして、オンドルの片隅に大切そうに置いてあるその大きな箱の蓋を取って中をのぞいてみると、驚くべし!何とその中には、裸の赤ん坊がいっぱい、ぎっしりつまっているじゃないか。

    高麗人参

    肝をつぶして若者は、蓋を閉めるのもそこそこに逃げ帰ったのであった。


    しかし、家に帰って、ドキドキする胸を押さえてみると、「どうもあの赤ん坊がくせものじゃわい」、ということに気づき、翌日になってから、素知らぬ顔で、俺にもその薬草を一本売ってくれまいかと例の男から買い求め、水を充分入れた瓶の中に挿しておいた。

    ところが、果たせるかな。日がたつに従って、それはだんだん赤ん坊に変わってきたのである。

    「これは、俺ひとりでは判断がつかぬ。とにもかくにもお上に申し上げなければなるまい」と気のついた若者は、恐れながらと、その土地の郡守に一伍一什(一部始終)を詳しく訴え出た。

    その申し出を聞いた郡守は、奇怪至極とばかりに、ただちにかの草売りを召し捕らえ、さような草をいかにして手に入れたか、厳しく尋問した。

    草売りは、「今は是非もなし」とあきらめたものか、「私は今まで、金儲けのために多数の赤ん坊を殺して、大それた悪事を働きました。まことに申し訳もございません」と神妙に首をうなだれて、処罰を乞うたのであった。

    しかし、さらに付け加えて言うようには、「その方法や手段を申し上げますならば、これからも私の真似をして悪事を働く者もできましょうし、またどれだけたくさんの赤ん坊が殺されることになるかわかりませんから、それだけは絶対に白状いたすわけにはまいりません」と言うのであった。

    郡守は法に照らして、彼を極刑の死刑にした。一方、彼の家をくまなく捜索せしめたが、これという怪しい手がかりの物もなく、ただ一本の見慣れぬ草があったというだけに過ぎなかった。

    そこで郡守はその訴え出た若者に与えて、それを栽培するようにと命じた。若者は命令通り、これを畑に植えて育てたところが、五年目に芽が出て花が咲き実を結んだ。これが後世有名な霊薬人参のそもそもの発見となったものである。

    なお、人参と名付けたのは、草売りと若者と郡守との三人(サムイン)の手で初めてその栽培が出来たので、それから人参(インサム)ということになったもので、また、初めて植えた場所はどこかといえば、それが今の開城当たりなのである。

    <出典>
    韓国昔話集成 第1巻 P245-248 KT73 人参の由来
    聞き取り 森川清人1944年 今村鞆が記録
    編著者 崔仁鶴、巌鎔姫、樋口淳
    発行日 2013年12月20日 発行所 悠書館

昔話は民族の精神的な遺産である

この昔話は崔仁鶴氏によって編纂されたものです。崔仁鶴氏は1934年慶尚北道で生まれ、幼い頃から昔話を聞いて育ちます。東京教育大学留学経験もあります。

昔話は、文字のない時代から語りによって伝承されてきたもので、民族の精神的な遺産であり、文芸的な成熟度の指標であり、民衆の望みや願いの表れであると崔仁鶴氏は言ってます。

そして、その考えのもと5000余りの民話が収集されました。それらは「アールネ=トンプソンの昔話タイプインデックス」に従って815話型に分類し体系的にまとめられました。

昔話は正しく伝承されてきたことに価値がある

聞き取りは1944年に森川清人氏によって行われ、今村鞆氏が記録したこととなっています。当時の韓国は日本統治下にあり、翌年1945年に統治が終わります。

今村鞆氏は朝鮮総督府に勤務し、大著「人参史」を著しています。実は、この昔話は「人参史」第六巻人参雑記篇にも記されており、崔仁鶴氏はこれを現代語調にアレンジしたと思われます。分かりやすいので崔仁鶴氏のものを引用しました。

いずれにしても、信用ある地位や立場の方々の検証のもと記された昔話ですので、この昔話は古くから民族の遺産として正しく伝承されてきたものと思われます。

高麗人参の効能はやはりすごい

人参の効能を表す言葉として、不老、強精、無病息災、精力絶倫などが出てきます。能書ではなく実際購入した人の体感ですから確かな効能があったと考えられます。

草売りは山参を栽培する方法を知っていた

この確かな効能から言うと山参ではないかと思われます。山で山参を採って売り歩いていたのではないか。

しかし、人参が赤ん坊の形をしていることから野生の山参ではないように思われます。草売りは山参に匹敵する効能を持った高麗人参を栽培していたのではないか。栽培方法を熟知していたのではないか。

極刑の死刑をも辞さず守り抜いた人参栽培方法とは?

その栽培方法には、赤ん坊を殺す必要があるようですが、一体どういうことでしょうか?

是非その方法を後世に残してほしかったと思います。

その後若者は郡守の命令によって栽培をしますが、5年目に芽が出て花が咲き実を結んだとあります。5年間放置していたのでは、あまり栽培に熱心に取り組んだ様子は見られません。その効能は草売りの人参に比べ見劣りするものだったでしょう。

開城は現在も高麗人参の有数の産地

昔話では、開城(ケソン)が高麗人参栽培の発祥の地となっています。開城は、現在も高麗人参の産地として非常に有名な北朝鮮の都市です。

開城の高麗人参は「胴が短く、脚が太く、女性のように美しい」ことが特長です。

草売りの栽培した人参は、赤ん坊のような形ですので、胴長短足の形です。現在の開城産の人参とは大きく異なるようです。栽培方法の違いからくるものと考えられます。

草売り男はどんな栽培方法をしたのか知りたいところです。ただ言えるのは、山参に匹敵するような高麗人参を栽培する方法があったということです。

その栽培方法を探求していきたいと思います。