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高麗人参の歴史(2)高麗人参を初めて飲んだ日本人は誰?

高麗人参

日本人が高麗人参の存在を知ったのは約1350年前

高麗人参が日本で知られるようになったのは、701年文武天皇の「大宝令」に「医生は新修本草を学ぶべし」との条文がありここから探ることができます。「新修本草」とは「神農本草経」を大改訂したもので、645年に出版されました。

これが日本にはじめて高麗人参のことを紹介した薬学書です。しかし、日本には高麗人参は自生していませんので実際に医療の現場で使われることはありませんでした。

日本で初めて高麗人参を飲んだのは聖武天皇

日本にはじめて高麗人参が持ち込まれたのは、739年聖武天皇のときで、渤海の文王からの修好使節が、献上品として人参30斤(現在の1斤は600gだが、当時中国の1斤は223g)を貢納したのが最初です。

これを皮切りに日本へ高麗人参が頻繁に持ち込まれるようになりました。しかし高価な高麗人参を服用できたのは皇族や貴族に限られていました。

室町時代に入っても日朝関係は概ね平和な関係にあったので朝鮮使節の来日は続き、その都度高麗人参が貢納されました。高麗人参もようやく一部の庶民にも用いられましたが、その高麗人参が本物であったかどうかは定かではないようです。

高麗人参が欲しくて朝鮮へ出兵した豊臣秀吉

1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵時に、薬種問屋出身の大名小西行長が加藤清正と共に先陣で朝鮮に渡っていますが、高麗人参の略奪の狙いがあったとも言われています。なにせ当時は、高麗人参は金銀に匹敵する価値がありましたから。

高麗人参が欲しくて日朝関係を改善した徳川家康

江戸時代に入り、徳川家康(1542-1616)は秀吉で傷ついた日朝関係改善に努め、和平と国交を回復しました。朝鮮通信使が定期的に日本を訪問し、高麗人参を貢納しました。家康も常に高麗人参を携帯し愛用していました。

その甲斐あって極めて健康で、当時としては非常に長寿の75歳で大往生を遂げます。その間、19人の子どもをもうけ、しかもそのうち3人は60歳を過ぎてから若い側室との間に誕生しており、精力絶倫であったことは確かです。

高麗人参の熱狂的人気が高まり大ブームが起きた江戸時代前期

1674年には幕府の援護を受けて江戸横山町に人参座(人参協同組合)が立てられ、高麗人参が大人気となります。身分の上下にかかわらず、病人も元気な者も買い漁ります。

高麗人参を買うために娘を売る親や、人参欲しさに盗みをする者が出たりするなど高麗人参ブームとなりました。この頃、「人参飲んで首縊る」「孝行は薬の鍋へ身を投げる」などの川柳が流行しました。

高麗人参が欲しくて「人参代往古銀」を発行した徳川綱吉

五代将軍徳川綱吉(1646-1709)の時代には、浪費や災害によって財政が悪化。生糸や薬品などの輸入代金の支払いによる金銀銅の海外への流出防止のため、貨幣の純金銀量を大幅に減らした質の悪い金銀貨を発行しました。

しかし、朝鮮商人から受け取りを拒否されたため、高麗人参の輸入については特別に「人参代往古銀」が発行されました。いかに高麗人参が必要とされていたかがわかります。

高麗人参の本格的な栽培事業を始めた徳川吉宗

八代将軍徳川吉宗(1684-1751)は、銀の国外への流出を抑えるために高麗人参を国内で栽培できないものかと本草学者や農学者、医師などを動員し、1728年に日光で栽培に成功します。そして各地の大名に高麗人参の栽培を奨励しました。

将軍から下賜された人参という意味で「御種人参」(オタネニンジン)という名前がつきました。江戸時代後期には、福島県会津地方、島根県の大根島、長野県佐久地方が主な栽培産地となり、明治時代の初頭には輸出も始まり、外貨を稼ぐまでになりました。

高麗人参の栽培は全盛期の昭和から氷河期の平成へ

明治中期には人参の需要は落ち込んでいましたが日露戦争に勝利し、清国への輸出が増加しました。その後の2回に大戦中は生産量が落ち込みましたが、昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、中国市場の七割を持つ韓国産人参の産地が壊滅状態となり、中国市場への進出が始まりました。

また、西洋医学のメッカである西ドイツやカナダ、ソ連などが漢方薬に関心を持つようになり、人参の需要が拡大しました。ここに高麗人参の全盛期を迎えます。

しかし、1985年のプラザ合意後の円高により収益が悪化し、高麗人参を作付する農家が減少していきました。現在、国内の年間消費量610トンの内、609トンを中国からの輸入に頼り、国内生産はわずか1トンという状況となっています。中国依存のレアアース同様の供給不安の問題が懸念されています。