江戸時代の高麗人参の土づくりは、エゴマを利用したもので、現在の植物学でエゴマのアレロパシー物質やアーバスキュラー菌根菌が、高麗人参の栽培に大変有用であることお話しさせていただきました。記事はこちら☞
しかし、明治時代に入り、人口増加と暮らしの向上による食糧需要の高まりのなか、農業は収穫量を上げることを迫られました。その結果、窒素成分を多く含む肥料が大量に畑に投入されました。収量が上がる一方で、連作障害や病害虫に悩まされることとなります。
大正から昭和に入って高度成長時代に突入し、ますます食糧需要は増加し、農薬や化学肥料を用いた近代農業?へと進みます。
高麗人参も例外ではなく、連作障害がひどくなる一方の状況を打破するために、一人の農業試験場の技術者が福島県会津に送り込まれました。
その人は、神林哲男氏。
平成の土づくりは連作障害との戦いの末、原点にかえる
神林哲男氏は1969年(昭和44年)に福島県園芸試験場会津試験地に赴任され、高麗人参の連作障害の解明に従事されます。そして連作障害の原因が土壌病害や土壌センチュウ類に起因することを明らかにされました。
そして、2000年(平成16年)にその集大成として「会津人参史」としてまとめ上げられました。神林哲男氏著「会津人参史」は、高麗人参の歴史から栽培、製造加工、販売に至る全般にわたって編纂されたもので、明治の初瀬川健増氏以降の100年ぶりの名著です。
「会津人参史」に記された平成の土づくりとは
第二節(8)土拵え・施肥の節の冒頭に次のように記されています。
薬用人参の原生地は、半日蔭の林間の落葉が堆積した植壌土に自生している。したがって、栽培に適した土壌条件は有機質に富み、排水が良い膨軟な土壌である。人参の栽培ほ場は、原生地に近い土壌にするために、丸一年をかけて有機質を施用し、深耕・耕耘を七~八回繰り返して排水の良い畑になるまで十分に土拵えを行う。
神林氏は、会津地方の地区によって異なる土質に対してそれぞれの土づくりの必要性を唱えられ、処方を示されています。
火山灰土壌(黒ボク土)に対しては
会津の西部にある沼沢沼は元々は火山の噴火口で、そこに水が溜まったカルデラ湖です。その東側に位置する会津美里町は火山灰土壌(黒ボク土)となっています。
火山灰土壌(黒ボク)に対しては、次のような処方が示されています。
有機質が多く、土質は軽い。春先に30~45cmの深耕を行い、苦土石灰150kg、堆肥4,000kg、油粕460kgを数回に分け施肥し、秋までに五~七回ほど反転耕耘する。
洪積土壌(重粘土壌)に対して
洪積土壌は、洪積世の氷河時代に堆積した地層に発達した土壌で、美里町の北部に広がる丘陵地帯の新鶴地区がこれに当たります。
新規開墾地では二ヶ年にわたって土拵えを行う。開畑初年目は荒起こし(天地返し)を行った後、秋口に屋くず(萱屋根の葺き替え屑)や半裁した藁束をおよそ2,000Kg程度深く鋤き込む。翌年は春から堆肥や青草などを3,000kg、苦土石灰を200kg及び油粕750~900kgを耕耘の都度施用し、秋までに八~十回ほど切り返し耕耘する。
水田転換畑(田畑人参)に対して
会津鶴ヶ城のおひざ元の門田地区は、人参栽培発祥の地。連作障害に困って稲作に転換。その結果は、
平坦地の門田地方は、過去にほとんどの畑で人参が作付されているので再作が多い。何時の頃か、水田跡地に人参を栽培したところ連作障害を回避できることがわかり、経験的に水稲と人参の輪作体系がとられるようになった。田畑人参では、水田を畑地化させるために水稲栽培を休み、麦やスダックスなど土壌改良資材として作付する。秋に排水溝を周囲の水田からの漏水を防ぎ乾田化をはかり、改良資材や籾殻を鋤き込んで、人参栽培に適した土壌に改良する。水田跡地は残留窒素成分が多いので、油粕などの窒素肥料は控えめにして作土(18~21cm)を六~八回耕耘する。
神林哲男氏は、明治や大正時代のようにやみくもに肥料を投入するのではなく、土質を見て肥料を加減することを述べられています。明治大正に比べ、窒素成分の多い肥料は大きく減少しています。
そして青草、萱、籾殻、麦やスダックスを用いて有機質に富んだ膨軟なふかふかな土づくりが大切であること、それが連作障害を防ぐとされています。
現在、会津農林事務所の指導も、稲わらなど有機質を十分鋤き込むこととソルゴーなどの緑肥作物を作付し鋤き込むことを奨励しています。油粕や牛糞などの窒素成分の多い肥料を使用しない方向に進んでいます。
高麗人参の土づくりのポイントは、「有機質に富んだ膨軟なふかふかな土」すなわち、「菌根菌が増殖しやすい土」をつくることです。
高麗人参の栽培を最初に成功させた江戸時代の田村藍水の方法に戻ったということです。ただ戻っただけでなくエゴマからソルゴーへ変わり、よりアーバスキュラー菌根菌を増殖させる緑肥作物になりました。
それにしても先人の偉大さに感服すると同時に現在の技術者に脱帽する次第です。